日本における警備の成り立ちと歩み

目次

はじめに

さまざまな施設や工事現場で警備員の姿をよく見かけますが、警備業はいつごろはじまったのでしょうか。「水と安全はタダ」と言われた日本において、警備業の歴史はそれほど長くありません。

しかし、今日のように警備業が発展した過程には、数々のイベントや事件・事故がありました。日本の警備業の成り立ちと歩みについて解説します。

日本の警備業のはじまり

日本の警備業は、1962年にはじまりました。

同年3月に設立された「日本船貨保全株式会社」が日本初の警備会社です。1973年に社名変更され、いまでは「株式会社大日警」として知られています。東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・北九州の6大港をはじめとする港湾地域の警備業務から発展を遂げました。

同年7月には「日本警備保障株式会社」も設立されました。1983年に「セコム株式会社」と社名変更され、日本の代表的な警備会社として知られています。設立後3か月は契約ゼロでしたが、現在では警備業界売り上げ第1位を誇ります。

アメリカでは1850年代に世界初の警備会社ができています。日本は「水と安全はタダ」と言われるほど治安がよかったため、警備業の歴史は100年以上遅れてはじまりました。当初はビジネスとして発展しないと思われていましたが、2021年における警備業の市場規模は3兆4500億円にまで成長しています。

警備業の発展

■1964年東京オリンピック

警備業は1962年にはじまりましたが、一般的には認知されていませんでした。転機は1964年の東京オリンピックです。1963年12月に東京オリンピック組織委員会から、日本警備保障(現セコム)が東京・代々木に建設される選手村の警備を受注しました。

依頼は選手村を工事や整備の段階から警備するものです。東京オリンピックの選手村は、当時返還されたばかりの米軍施設ワシントンハイツが活用されました。400戸ほどの取り壊す住宅に不法侵入者が多くいたため、警備をする必要がありました。

東京オリンピックが無事故で開催されたことに対して、東京オリンピック組織委員会は日本警備保障(現セコム)に感謝状を贈呈しています。これをきっかけに警備業は社会的に高い評価を得て、一般的に認知されました。

■テレビドラマ「ザ・ガードマン」

警備業がさらに有名になったのは、TBSのテレビドラマ「ザ・ガードマン」がきっかけです。東京オリンピックの翌年1965年4月から1971年12月までの6年9か月で、全350話が放映されました。ドラマ内の警備会社「東京パトロール」は日本警備保障(現セコム)がモデルです。

JNN全国視聴率調査では、1965年と1966年の2年連続で第1位。1967年9月22日には最高視聴率40.2%も記録しています。このテレビドラマの人気によって、さらに警備業の知名度が上がりました。

■機械警備の誕生

1966年5月に日本警備保障(現セコム)は、日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発し、機械警備サービスを開始します。警備対象施設にはセンサーが設置されており、コントロールセンターが侵入や火災などの異常信号を受信すると警備員が駆け付ける警備システムです。

1969年4月7日にはSPアラームが「永山則夫連続射殺事件」の犯人逮捕のきっかけを作りました。永山則夫連続射殺事件とは、1968年の10月から11月にかけて東京・京都・北海道・愛知で男性4人が拳銃で殺害された事件です。拳銃は在日米軍・横須賀海軍基地から盗まれた物でした。

犯人である永山則夫は金品を盗むため、午前1時ごろ東京都渋谷区にある「一橋スクール・オブ・ビジネス」に侵入しました。異常信号の受信により現場に駆け付けた警備員と格闘して逃走しますが、緊急配備された警察官に逮捕されます。

この事件がきっかけとなり、機械警備の有効性が社会に証明されました。2021年12月末時点で機械警備の業者数は571業者で、警備対象施設数は326万2011か所に広がっています。警備対象施設数は2019年に一時落ち込んだものの、過去5年間の増加率は7.36%です。

■現金輸送警備の誕生

1966年には日本警備保障(現セコム)が名古屋の銀行で現金輸送警備をはじめています。

一般的に現金輸送警備が広がるきっかけとなったのは、1968年12月10日に起きた「三億円事件」です。東京都府中市で約3億円を載せた現金輸送車が、偽物の白バイ警察官に奪われました。犯人が捕まらないまま、未解決事件となっています。

当時、現金輸送は銀行員によっておこなわれていました。この事件をきっかけに現金輸送のリスクが浮き彫りとなり、専門の警備員による現金輸送警備が普及しました。2021年12月末時点で現金輸送警備の業者数は427業者にのぼります。

■多種多様な警備需要の高まり

時代の流れに応じて、警備業は多種多様な需要の高まりを見せます。1968年から1969年には全共闘(全学共闘会議)による大学紛争が起こり、武力闘争が激しくなる大学では警備が必要とされました。

1970年に開催された大阪万博は、3月15日から9月13日までの183日間で6421万8770人の来場者数を記録します。複数の警備会社が協力して、日本史上最大の雑踏警備に貢献しました。同年3月31日には「よど号ハイジャック事件」も起きています。この事件により空港保安警備が強化されるきっかけとなりました。

現在は禁止されていますが、当時は企業の労働争議に対する警備も需要がありました。公害反対や成田空港建設反対などの市民運動に対しても同様です。

1974年8月から1975年5月にかけては「連続企業爆破事件」が起こります。無差別爆弾テロにより三菱重工ビルなど9か所が爆破され、企業における警備需要がさらに高まりました。

2001年7月21日には「明石花火大会歩道橋事故」が発生しました。群集雪崩により11人が犠牲になったことを受け、雑踏警備が強化されました。同年9月11日にはアメリカ同時多発テロ事件も発生し、空港や港湾などの施設警備ではテロ対策が強化されています。

2004年3月26日には六本木ヒルズの自動回転扉で、6歳の男児が挟まれて命を落とす事故がありました。この事故をきっかけに、回転扉には警備員の配置が義務付けられています。

2007年4月には、日本初の官民協働の刑務所である「美祢社会復帰促進センター」も誕生しました。PFI(Private Finance Initiative)と呼ばれる方式で、警備会社をはじめとする民間企業の資金やノウハウが提供されています。

今日の警備業

警察庁が発表している「令和3年における警備業の概況」によると、2021年12月末時点における警備業者数は1万359業者、警備員数は58万9938人となっています。過去5年間は年々増加しており、増加率はそれぞれ8.49%と6.79%です。

一般社団法人全国警備業協会の調査によると、2021年12月末時点における9,098業者の売り上げの合計は3兆4537億6500万円でした。過去5年間はほぼ横ばいに推移しています。

厚生労働省が毎月公表している一般職業紹介状況の統計によると、2022年10月における警備員の有効求人倍率は7.16倍でした。全職業合計での値は1.23倍なので、警備業界の人手不足が目立っています。

警備員の人手不足を解消するために、警備会社によってはロボットやドローン、AIなど最新テクノロジーを活用した警備システムの導入が進められています。

まとめ

日本の警備業は、1962年にはじまりました。同年3月には「日本船貨保全株式会社(現在は株式会社大日警)」、同年7月には「日本警備保障株式会社(現在はセコム株式会社)」が設立されています。

東京オリンピックや大阪万博などのイベントのほか、三億円事件や明石花火大会歩道橋事故などの事件・事故を経験することにより、警備業は発展および強化を遂げてきました。

「水と安全はタダ」と言われる日本において、当初はビジネスとして発展しないと思われていましたが、2021年における警備業の市場規模は3兆4500億円です。現在では人手不足を解消するために、ロボットやドローン、AIなどの最新テクノロジーも活用されるまでに成長しました。

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